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東京地方裁判所 昭和35年(行)39号 判決

原告 国

右代表者法務大臣 植木庚子郎

右指定代理人 家弓吉巳

〈外三名〉

被告 中央労働委員会

右代表者会長 藤林敬三

右指定代理人 兼子一

〈外三名〉

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

原告指定代理人は、「被告が中労委昭和三十三年(不再)第三〇号不当労働行為再審査申立事件につき昭和三十五年四月十三日附をもつてなした命令を取消す。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求め、その請求の原因として≪以下省略≫

理由

一  原告が杉山千代子を昭和二十五年十一月在日アメリカ合衆国軍隊の役務に服させるため雇入れ、昭和三十一年七月二十七日附で解雇したこと、しかして右解雇につき、組合が国(原告)の当該事務を管理する神奈川県知事を相手どつて提起した不当労働行為救済の申立に基き、原告主張の手続を経て、被告が昭和三十五年四月十三日附で原告主張の救済命令を発し、その命令書の写が同月二十一日同県知事に送達されたことは当事者間に争がない。

二  そこで、原告が杉山千代子に対してなした右解雇が不当労働行為を構成するか否か、したがつて被告が発した右救済命令が適法か否かについて判断する。

1  ≪証拠省略≫によれば、杉山千代子は、その夫たる杉山巌(昭和三十年十一月九日以降同居し、本件解雇時には内縁の夫婦関係にあつて、被告において本件不当労働行為再審査中、正式婚姻届をなした)が附属協定第一条a項の定める保安基準(2)号にあたること、すなわち「アメリカ合衆国の保安に直接有害と認められる政策を継続かつ反覆して採用または支持する破壊的団体(または会)の構成員」であることを主たる根拠として、同基準(3)号にあたること、すなわち「(2)号の団体(または会)の構成員と常習的または密接に連繋し、その程度がアメリカ合衆国の保安上の利益に反するものと認めるを相当とするとき」にあたることを理由に解雇されたものであること、なお杉山巌は同じく駐留軍労務者として雇われ中、前記保安基準(3)号((2)号でなく)にあたるという理由で昭和三十年十二月解雇されたものであるが、杉山千代子に対する本件解雇の理由中においては右基準(2)号にあたるものとして取扱われたこと、しかして、右解雇は軍の上級司令官が杉山千代子の所属する基地の指揮官の関与をまたず、独自の機関によつて入手した情報に基き、自ら手続を発議、進行させ、かつ、直属の諮問機関たる保安解雇審査委員会の審査にかけ、また、調達庁長官に通知し、その意見を求めて行われたものであること、保安解雇審査委員会は、軍が、日本との平和条約発効後、駐留軍労務者に対して採用した労働政策に則り、保安上の理由による解雇についても日本国の労働法規に触れる不当な解雇を避けるため設置され、その審査においては、対象たる労働者の労働組合活動その他アメリカ合衆国の保安に関係のない事項の考慮を排除する建前をとつているものであるが、杉山千代子に関する軍司令官の諮問に応じて前記保安基準該当の事実を肯定したこと、また調達庁長官は、昭和三十一年五月十五日軍司令官の前記通知を受けて、調査の結果、同年六月十五日右事実の認定に同意する旨の意見を供示したこと、さらに、杉山千代子は、右解雇を不服とし、同年八月十一日附属協定第六条に基き軍司令官に訴願したが、同年十月十九日これを却下されたことが認められる。

したがつて、杉山千代子に対する本件解雇は、いわゆる保安解雇として、いかにも十分な理由を備え、なんら間然とするところがないかのようにみえるけれども、右解雇の手続中において、軍司令官をはじめ、その諸機関及び調達庁長官が杉山巌ひいては杉山千代子につき前記各保安基準該当の事実があると認定するにあたり、その当然の前提としたものと解される「破壊的団体(または会)」が、どのような特定の団体を指すかについては、原告において、なんら具体的主張をしないまま、本件全立証をもつてしても、ついに、これを認めることができない。もつとも、≪証拠省略≫中には、調達庁労務部の労務監査官として右解雇手続に関与した後藤芳蔵の口述として、右にいう「破壊的団体」とは日本に実在する特定の団体であつて、軍と調達庁との間においては特に名称を挙げなくても相互共通の理解が得られるものである旨の記載ならびに軍が日本共産党を破壊的団体と考えていることは情勢上推測できる旨の記載があり、また≪証拠省略≫中には、杉山巌が昭和三十四年十一月二十五日神奈川県相模原地区において行われた安保改訂阻止のデモンストレーシヨンに日本共産党の腕章を帯びて参加し、相模原労管に現われた旨の記載があるが、さような記載だけでは、いつこう、この点の事実関係の解明に寄与するところがないから、右各記載は採用の限りではない。そうだとすれば、杉山巌ひいてはまた杉山千代子につき保安基準該当の具体的事実が存在したとは、なんらの疑も残さずに肯認し得るものではない。この場合、本件解雇の前後に保安解雇の適正実施のために設けられたものと目すべき前記認定の手続が践まれたのであるが、それだからといつて、これにより、直ちに、保安基準該当の具体的事実そのものまで存在したものと判断しなければならない事理は少しもないのである。すなわち、杉山千代子に対する解雇は一応保安上の理由を付せられたとはいえ、事実これに根拠があつたことについては結局立証がなかつたことに帰着するというほかないのであつて、そのしかる以上、右解雇につき不当労働行為成立の余地が、原告主張のように、はなから否定されるわけではない。なお、原告は、杉山千代子に対する解雇が破壊的団体の構成員と認められる杉山巌との夫婦関係に着眼し、これと連繋があることを理由とするものであつた以上、たとえ杉山巌に関する右認定に誤りがあつても、右解雇の真の理由が保安上の危険に存したことは動かせない旨を主張するが、右解雇の理由が単なる名目に堕すべきことは上記説示したところから明らかであつて、右主張を排斥するに多言を要しない。

されば、ひるがえつて杉山千代子の組合活動及び、これに対する軍の態度について審らかにしなければならない。

2  杉山千代子の組合活動

杉山千代子が昭和二十五年十一月二十五日軍の横浜技術廠相模本廠ストツク・コントロール・デイビイジヨンに入職し、昭和二十七年軍の組織変更に伴い同廠マシン・レコード・デイビイジヨン所属となり、通じて、アイ・ビイ・エム・キイ・パンチ・オペレーターないしアイ・ビイ・エム・マシン・オペレーターの職に従事し、昭和三十一年六月八日チーフ・オペレーター(アシスタント)に格付けされたことは当事者間に争がなく、≪証拠省略≫によれば、杉山千代子は昭和二十八年五月相模廠ストツク・コントロール・デイビイジヨン、マシン・レコード・デイビイジヨン等に配属の日本人労務者が全日駐労働組合相模本廠分会に集団加入するにあたり、自らも加入するとともに、マシン・レコード・デイビイジヨンにおけるキイ・パンチ・セクシヨンの職場から職場委員に選出されて昭和二十九年四月頃まで在任し、その間に右本廠分会が全駐労に統合され、また、その同地域における下部組織と合同して組合相模支部となつたが、越えて同年五月以降昭和三十一年四月頃まで、その支部委員に選出されて在任し、同年四月には再びキイ・パンチ・セクシヨン職場委員に選出されて解雇時まで在任し、なお、昭和二十九年五月以降終始組合相模支部の文化部に在藉したことが認められる。

しかして、その具体的組合活動を明らかにするに、

(イ)  ステネツト事件

≪証拠省略≫を綜合すると、昭和二十八年三月頃ストツク・コントロール・デイビイジヨン、インカミング・プロパテイ・ブランチで、同ブランチ責任者ステネツト(文官)が同ブランチの日本人労務者岸節子に対し、その無能を理由に解雇すべき旨を告げたところ、ステネツトの平素の横暴な言動に不満を抱く日本人女子労務者は、岸に同情し、同ブランチの井上時夫をはじめ他の職場の日本人労務者の応援、協力を得て、岸解雇の反対ならびにステネツトおよび同ブランチの日本人監督鈴木某の排斥を目的とする抗議運動を起し(インカミング責任者ステネツトが日本人労務者岸節子を解雇しようとしたのに対し、日本人労務者間に解雇反対、ステネツト排斥を目的とする抗議運動が起きたことは争がない。)、事の次第をストツク・コントロール・デイビイジヨンの主脳に訴えるべく、その趣旨を記載した日本人労務者の署名簿を作成提出したこと、これがため、ストツク・コントロール・デイビイジヨンの責任者クロツカー中佐においてインカミング・プロパテイ・ブランチの職員を集合させて事情を聴取するところとなつたが、岸に対する解雇はそれきり沙汰やみになつたこと、右事件において、杉山千代子は、井上時夫、阿部喜一、杉山巌らの日本人労務者が積極的に抗議運動を展開するのに協力して、各職場の日本人労務者との連絡に任じ、また、マシン・レコード・デイビイジヨンにおけるアイ・ビイ・エム、キイ・パンチ各セクシヨンの日本人労務者をその職場で説得して署名簿に署名させるなどして、積極的に活動したことが認められる。

(ロ)  組合組織の結成

≪証拠省略≫によれば、ステネツト事件をきつかけとして、相模本廠ストツク・コントロール・デイビイジヨン、マシン・レコード・デイビイジヨン等に配属の日本人労務者間にも、ようやく労働組合結成の気運がみなぎり、昭和二十八年五月に至り労働組合の職場組織が結成され、全日駐労働組合相模本廠分会に編入されたこと、その間において、杉山千代子は、かねて労働組合の必要性を主張していたところから進んでその組織活動における中核の一員となり、組織結成の会合に加わつたほか、他の日本人労務者を説得して組織に加入させるなど、積極的に活動したことが認められる。

(ハ)  ランバート事件

≪証拠省略≫によれば、昭和二十九年八月マシン・レコード・デイビイジヨンにおけるキイ・パンチ・アイ・ビイ・エム各セクシヨンの責任者ランバート軍曹が、キイ・パンチ・セクシヨンの日本人監督増田美枝(乙第二号証の四中吉川孝子の口述記載として増田恒雄とあるのは誤記と認める。)を同人が組合に加入していることを理由に配置転換しようとして、同人にその旨を告げたところ、キイ・パンチ、アイ・ビイ・エム各セクシヨンの組合員は、これを組合に対する圧迫であると解して、直ちに職場集会を催し、ランバート軍曹排斥のため、これが要求を記載した日本人労務者の署名簿をマシン・レコード・デイビイジヨンの責任者フアーラー少佐に提出する方針を定めて、実行に移した(キイ・パーチおよびアイ・ビイ・エムの責任者ランバート軍曹の排斥斗争が行われたことは争がない。)こと、ところが、右署名簿の提出前、ランバート軍曹がマシン・レコード・デイビイジヨンのプラニング・オフイスに転じるとともに、増田美枝の配置転換も実現をみなかつたので、紛争は自然解消したこと、右事件において、杉山千代子は、増田美枝から同人に対するランバート軍曹の措置を聞知したので、これが対策を建てるため、その中心となるべき組合員を招集して協議し、その結果、職場全体の共同斗争を期して職場集会開催の運びに至らせたことが認められる。

(ニ)  職場の要求取上げ

≪証拠省略≫によれば、昭和二十九年から昭和三十年にかけ、マシン・レコード・デイビイジヨンのキイ・パンチ・セクシヨンの職場においては、勤務条件について日常日本人労務者間に発生する各種の不平不満を組合員が取上げ、組合を通じてする相模原労管との交渉またはキイ・パンチ・セクシヨンの日本人監督もしくはマシン・レコード・デイビイジヨンの責任者との直接交渉により、その改善方を要求し、その半ばは達成された(右期間に右職場の要求について組合の対労管交渉が行われたことは争がない)こと、例えば昭和二十九年中には、日本人女子労務者が繁忙時に午後十一時まで勤務を命じられることがあつたが、組合員は、これを労働基準法に触れるとして、組合を通じて相模原労管と交渉し、その結果、男子労務者の職場移入をみて事態が改善され、また、実際にはマシン・オペレーターの職に従事しながらクラークもしくはタイピストという下級職種にあつた労務者の不満を組合員が取上げ、組合を通じて相模原労管と交渉し、制度上可能な範囲で職種格上げを実現させ、さらに、昭和三十年にわたつては、夜勤終了時労務者のための軍バスの運行、男子労務者の深夜業廃止から細い事項では室内空気の調節、サイド・テーブル、ロツカーの増設、物差の増配等に至るまで各種の要求をなし、これがため、キイ・パンチ・セクシヨンは「うるさい職場」という評判さえ立てられたこと、しかして、杉山千代子は職場委員ないし支部委員として、右のような職場の不平不満を適時に取上げ、組合員を説得、誘導して、職場委員会なり職場懇談会なりの集会を開き、勤務条件改善のため一定の要求に取りまとめ、なお、必要な場合には、資料を準備して前記のような対労管、対軍交渉に移し、また、対軍交渉においては、自ら交渉にあたるなど、積極的活動をなしたことが認められる。

(ホ)  コーラス活動

≪証拠省略≫によれば、マシン・レコード・デイビイジヨンにおけるキイ・パンチ・セクシヨンの女子組合員は、昭和二十八年五月組合組織の結成後間もなく職場委員会において認識された文化活動の重要性にかんがみ、職場にコーラス活動を展開すべく、その頃から同職場の日本人女子労務者から希望者を集め、昼食休憩時間中基地内においてコーラスを行い、次第に参加者の増加をみたが、一方、昭和二十九年三月組合相模支部統合後、その文化部は文化活動の一環としてコーラス活動を強化する方針を定め、これに基き、同年六月組合相模支部単位のコーラス組織を結成して「おんちコーラス」と命名したこと、しかして、同年九月組合が行つた特別退職手当に関する要求のための全面ストライキに際しては、その司令部分会の職場委員会においてコーラスを活用して組合員の士気を昂めることを決議したので、前記職場コーラスの参加者は、ストライキ前約二週間にわたり休憩時間中基地内において労働歌のコーラス練習を重ねたうえ、ストライキ当日は相模本廠基地の乾門に赴き、ピケツト・ラインを敷く組合員を指導しつつ、その唱和を得て、コーラスを行つたほか、他分会の「おんちコーラス」加入者と合流し、オート三輪車を駆つて、同基地の他の通用門を廻り、そのたびに、コーラスを行つて気勢を揚げ、ピケツト・ラインの組合員を激励したこと、その後「おんちコーラス」は、加入者の増加とコーラス内容の向上とをみたが、昭和三十年には組合の執行部および文化部の承認のもとに、東京都南多摩郡堺村、神奈川県相模原市大江部落等に出赴き、右各地域の青年団の要請に応じ、その団員に歌唱を指導し、また、いわゆる「うたごえ運動」の催したる「春の大音楽祭」その他の集会に参加してコーラスを披露したこと、もつとも、キイ・パンチ・セクシヨンの前記職場コーラスは、その後活動を停滞させていたが、昭和三十一年四月司令部分会の職場委員会が定めた方針に基き、その活動を再強化すべく、司令部分会の全職場に回覧を流して呼びかけ、その各職場から多数の参加者を加えた六十数名におよぶ大コーラス隊を編成し、前後約三回にわたり休憩時間中基地内の屋外において電気ギターの伴奏によりコーラスの練習を行つたこと、この間にあつて杉山千代子は、組合の文化部員として、キイ・パンチ・セクシヨンの職場コーラスについては、その発足当初から同僚の竹井勝子、吉川孝子らとともに、同職場の女子労務者を勧誘するなどして、その育成に努め、かつ、終始その中心となつてコーラスを指導し、また組合の「おんちコーラス」についても、これが組織結成に参画したうえ、その指導育成の面において右同様の活動をしたが、前記ストライキに際しては、職場コーラスによる前記のような労働歌の事前練習および基地の各通用門附近のピケツト・ラインにおけるコーラスに卒先して参加し、ことに、乾門においては拡声機を通して組合員の歌唱指導を行うなど、積極的に活動し、また、「おんちコーラス」による前記のような近郷青年団員に対する歌唱指導および「うたごえ運動」におけるコーラスの披露には欠かさず参加して指揮を執るなどの活動をし、さらに、前記のような「職場コーラス」の再強化に対しては、その計画に参加して、これが実行に関与するとともに、コーラスの実地練習の指揮にもあたつたことが認められる。

(ヘ)  山川弘子解雇事件

≪証拠省略≫を綜合すると、マシン・レコード・デイビイジヨンにおけるキイ・パンチ・セクシヨンの日本人労務者山川弘子は昭和三十一年四月、五月頃病気のため二ヶ月にわたつて欠勤し、これにつき医師の診断書一通を右デイビイジヨンの責任者に提出したが、服務規律上、一ヶ月を超える病気欠勤の場合には一ヶ月ごとに医師の診断書を提出すべきことになつていたため違式の診断書として返戻されたので、あらためて既往の欠勤期間を一月単位に区分した医師の診断書を提出したこと、ところが、右診断書中、最初の一月目のものを捉えて提出時期を遡及させた不正なものと解した右デイビイジヨンの責任者は、山川が、かねて遅刻出勤、欠勤を重ねたほか、二回ほど右同様の診断書を提出したことに徴し、診断書の不正使用を理由に、同人に対する出勤停止および解雇の措置を相模本廠日本人人事事務官に要請し、右人事事務官からその旨非公式の通知を受けた相模原労管所長は、山川に対し、任意退職しない限り懲戒解雇となるのは明らかであるとして、退職の勧告をしたこと、組合は、右事実を知つて、さつそく同年五月十一日労管に山川の救命を要求し、同月十八日労管と団体交渉を行い、山川が提出した診断書に不正はなく、仮にあつたとしても、医師の責任にすぎない故、解雇事由として首肯し得ない旨を主張し、これに対し、労管は、事柄の性質上軍の態度を正当とし、一貫して右要求を拒否していたが、同日午後十一時頃ようやく山川の救済方法につき両者間の妥協に達したので、その協定に従い、同月二十四日組合は、山川本人の謝罪状とその同僚たる同デイビイジヨンの職員一同の嘆願書を労管所長に提出し、翌二十五日労管所長は相模本廠日本人人事官ダンに右書類を示して山川の助命方を折衝し、その結果、ダンにおいて右デイビイジヨンを説得、山川に対する解雇措置の要求を撤回させるに至つたこと、右事件において、杉山千代子は、当初、山川に対し解雇措置がとられようとしている事実を同職場の組合員竹井勝子から伝え聞くと、職場委員として放置できないとし、直ちに同人その他二、三の組合員と山川救済の対策を協議したうえ、専従執行委員志村秀司を通じて組合を動かし、労管との前記団体交渉に至らせるとともに、キイ・パンチ・セクシヨンの非組合員を含む日本人労務者全員に呼びかけて右団体交渉に臨ませ、これに気勢を添えたことが認められる。

以上認定の事実によれば、杉山千代子は、相模本廠ストツク・コントロール・マシン・レコード各デイビイジヨン等の職場に組合組織が結成された当初から終始着実に組合活動を続け、ことに、日本人労務者の処遇問題および職場における勤務条件に関し日常発生する不平不満を忠実に取上げ、労働者の団結に訴えて解決をはかるため手段を尽すなど、いわゆる職場斗争の面において積極的活動をみせるとともに、日本人労務者のコーラス活動を育成指導して労働者の連帯意識の強化に努めるなど、文化工作の面においても顕著な活動をなし、おのずと組合相模支部の職場組織において女性として中心的存在となつていたものといわなければならない。

原告は、杉山千代子の組合活動が総体的に組合員なら誰でもする程度のものであつて、それ自体刮目に値するものではなかつた旨を主張するが、≪証拠の認否省略≫ほかに以上の認定を覆して右主張を肯認するに足る証拠はない。もつとも、≪証拠省略≫によれば、基地内における組合活動は軍によつて禁止されていたことが認められるが、原告主張のように、その一事によつて、直ちに前記認定を覆して、前記ステネツト事件等における署名運動が基地外だけで行われたものと推認すべきものではない。また、≪証拠省略≫によれば、杉山千代子は前記職場の要求に関する組合の対労管交渉において、組合側の正式交渉委員ではなかつたこと、これがため、労管も当時杉山千代子に注目しなかつたことが認められるが、これにより、杉山千代子の職場斗争における活動の評価を左右すべきいわれがないことは組合活動が労管との団体交渉に限局されない実情に徴して明らかであつて、その点に眼を覆うがごとき原告の見解には左袒しがたい。なお、≪証拠省略≫中、相模本廠マシン・レコード・デイビイジヨンにおけるキイ・パンチ・セクシヨンの職員が行つたコーラスは組合活動と認められない旨の記載ないし供述部分は、いずれも真相をみない短見というほかない。

(ただ付言すると、昭和二十八年七月日本人労務者井上時夫の、昭和二十九年末日本人労務者増田恒雄の各解雇反対斗争が行われたことは当事者間に争がないが、右各斗争において、杉山千代子が、被告主張のように、職場の中心となつて活動したことを肯認するに足る証拠はない。)

3  これに対する軍の反応

(イ)  ≪証拠省略≫を綜合すると、昭和二十八年三月前記ステネツト事件に際し、日本人労務者から排斥運動の目標とされた当のステネツトは杉山千代子が右運動上の連絡などのため各職場における日本人労務者の間を立廻るのをいぶかつて、その行動を特別に注視し、同人の行先、用件などを探知しようとしたこと、また、相模本廠マシン・レコード・デイビイジヨンの責任者フアーラー少佐は前記ランバート事件に先立つ頃、同デイビイジヨンにおけるキイ・パンチ・セクシヨンの日本人監督増田美枝に対し、右デイビイジヨンの主脳間においては杉山千代子を要注意人物として申送つている事実を告げ、同人を特に監督すべく指示したこと、ついで、昭和二十九年八月右ランバート事件に際し、ランバート軍曹排斥運動のため組合員間の接触が繁くなると、当のランバート軍曹は、杉山千代子の行動に着目して、その行先、用件などを探知しようとし、また、右事件落着後も暫らくの間、米兵が職場内における日本人労務者の動静を覗つていたこと、かような米兵の態度の意味合いをフアーラー少佐の指示に則して感得した増田美枝は、かねて杉山千代子と親しい間柄であつたところから、同人に対し、フアーラー少佐によつて知らされた事実を打明け、言動を慎しむよう忠告したこと、一方、杉山千代子は同人が要注意人物に挙げられている事実を右デイビイジヨンのアイ・ビイ・エム・セクシヨンの日本人監督大里利三からも告げられたこと、なお昭和二十九年から昭和三十年にかけて右キイ・パンチ・セクシヨンの職場から前記のように各種の要求が起された際、そのつど米兵の看視的態度も強化されたが、さらに、昭和三十一年五月前記山川弘子解雇事件の落着後には、右職場に米兵が特別に派遣され、日本人労務者の動静、とくに杉山千代子その他の組合活動家の行動を注視し、職場における普段の会話の内容まで知ろうとしたり、杉山千代子が職場上の必要から席を立つて他の日本人労務者に近づくと、職務外の会話がなされるのをおそれて離席を差止めたりしたことが認められ、右認定に牴触する甲第七号証の一の記載部分、証人土屋鉄彦、同滝村幸雄の各供述部分は、にわかに採用しがたく、ほかに右認定を覆すに足る証拠はない。

してみると、なにか特別の事情でもあれば格別、さもない以上、右デイビイジヨン主脳部は同デイビイジヨンにおける組合活動に、なみなみならぬ関心を寄せ、特に杉山千代子の活動に注目を払つていたものと認めるのを相当とし、右認定を動かすに足る証拠はない。

(ロ)  ≪証拠省略≫によれば、昭和三十一年四月前記職場コーラスの再強化方針に基いて行われた大コーラス隊の練習が回を重ねると、米人職制間には、日本人労務者に対し、右コーラスが組合活動として軍側から注視されているとて、これへの参加を中止させる動きがみられたところ、米兵が右コーラス練習の状況を附近の屋上から八ミリ映画に撮影したりしたので、コーラス参加者が激減し、これがため、右コーラス練習も僅か三回位で終りを告げ、その後杉山千代子が本件解雇をうけてからは職場コーラス活動は全面的にひつそくするに至つたことが認められる。

しかして、右認定の事実に、杉山千代子の前記(2)(ホ)に認定したような顕著なコーラス活動、その所属デイビイジヨン主脳部の上記(イ)にみたような態度を考え併せると、右デイビイジヨン主脳部は右職場コーラスを組合の文化工作と目し、その観点から、杉山千代子の右コーラスにおける活動をも特に注視していたものと推量するにかたくない。なお、原告は、米兵がコーラスの練習状況を撮影したことをもつて日本人の風俗に対する好奇心の現われにすぎない旨を主張するが、さように単純な解釈が許される事情にあつたとは本件証拠上考えられないのである。

4  ここにおいて、上記1ないし3において説示したところを、かれこれ比較考察すれば、杉山千代子に対する本件解雇に付された保安上の理由については、これに該当する具体的事実の立証がなく、その反面、同人の組合活動に顕著なものがあり、軍も、これを特別注視していた事実が存するのであるから、右解雇は、ほかに特段の事情がない限り、軍が同人を、その組合活動の故に嫌つて基地外に排除するため、保安上の理由に名を藉り、国(原告)に要求して行つたものと認めるほかはない。

もつとも、≪証拠省略≫によれば、杉山千代子は、相模本廠マシン・レコード・デイビイジヨンのキイ・パンチ・セクションにおいて最古参のアイ・ビイ・エム・マシン・オペレーターであつたが、その技術も熟練し、有能なところから、同セクシヨン日本人監督増田美枝の推薦により、本件解雇をうけるより僅か一月半前の昭和三十一年六月八日チーフ・オペレーター(アシスタント)に昇格したこと、また、マシン・レコード・デイビイジヨンの責任者フアーラー少佐は、右解雇後杉山千代子の職場代表から右解雇の理由につき質問をうけた際、同人に対する感想として、その評価を傷ける報告や監督者の苦情もないので、関知する限りでは、杉山千代子を指図どおり職務を実行する有能な労務者と思つていたと表明し、その後組合から労管を通じて要求したところに応じ、杉山千代子の保安解雇に対する訴願の資料として、同年八月十三日右感想表明の事実を記載した声明文を作成交付したことが認められ、右事実によれば、あたかも右デイビイジヨン主脳部は杉山千代子を嫌うより、むしろ原告主張のように信頼していたかのようにみえるけれども、右昇格の点については、杉山千代子が最古参の有能な技術者であり、しかも、日本人監督(その増田美枝は前記認定のように杉山千代子と親しい間柄にあり、少くとも前記ランバート事件当時は組合員であつた。)の推薦があるだけに、一般に首肯され得る理由が見出せない限り、昇格を見合わせ得なかつたものと解されないわけではないから、右昇格の事実だけで、軍の反組合的意図の存在まで否定すべき限りではないし、フアーラー少佐の右感想表明についても、その時期、相手方等の関係に想到すると、杉山千代子に対する職務の面における評価に止まつたものと解して妨げなく、とうてい同少佐が杉山千代子の組合活動を超絶して同人に全幅の信頼を置いていたことの証左となり得るものではないから、これまた軍の反組合的意図の存在を否定する根拠となしがたいのである。なお、原告主張のように、杉山千代子以上に積極的な組合活動をした日本人労務者が今なお在職する事実が仮にあつたとしても、別段以上認定の妨げとなるものではないから、これに反する原告の見解は採用しない。

果してそうだとすれば、国(原告)が軍の要求に基き杉山千代子に対してなした本件解雇は労働組合法第七条第一号の不当労働行為を構成するものというべきであつて、被告がこれと同一の判断のもとに本件救済命令を発したのは、もとより正当である。なお、右命令には、その処分内容上も、なんら違法な点を認めがたい。

三  よつて、右救済命令の取消を求める原告の本訴請求を失当として棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 吉田豊 裁判官 駒田駿太郎 裁判官北川弘治は転補につき署名捺印することができない。裁判長裁判官 吉田豊)

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